【前編】ドイツ育ちの帰国子女がGMO NIKKOへ入社を決めた理由
今回は、GMOアドパートナーズの連結会社 GMO NIKKOでアートディレクターとして活躍する増谷さんにお話を聞きました。
入社2年、現在の仕事について
ー現在のお仕事を教えてください
現在は、化粧品ブランドのアートディレクション、新ブランドのブランディングに対する案出しなど幅広い業務を担当しています。クライアントの課題に対して最高のアウトプットを提供することが私のミッションです。
クライアントの課題をヒアリングするところから始まり、Webを中心としたプロモーションにおけるクリエイティブのクオリティコントロール、スケジュールや予算の管理など、制作進行業務全般を担当しています。
自分で手を動かす業務ももちろんあるのですが、今は考えて指示を出すディレクション業務の方が多いですね。
ー幅広い業務を担当されているんですね。増谷さんが担当した案件についてもう少しくわしくお話しいただけますか?
はい、以前担当した食品メーカーさんのお話しをさせていただきます。そのクライアントは「公式Twitterのツイートに対する反応が薄い」「インプレッションを上げたい」という要望を抱えていました。
それに対して最善の解決策を提案するためには、ターゲットとなる主婦の方々の「生の声」を聞くことが一番必要だと考えたんです。そこで、私は毎週キリスト教会へ行き、主婦の方々に混ざって食事をとりながら、アイディアになりそうなポイントを約3ヶ月間にわたり徹底的に調査しました。
ーすごい行動力ですね。ヒアリングの結果からどんな解決策を提案したんですか?
ツイート文の広告感を減らし、主婦の方々が普段、近所の方と立ち話をするような「ないと困る調味料は?」「今旬の〇〇の時短術は?」など、問いかけるような内容のクリエイティブを作成・投稿しました。結果、双方向のコミュニケーションを活性化し、その年で一番高いインプレッション数を記録することができました。クライアントからも好評で、当初は通常投稿のみの予定でしたが、最終的にはキャンペーン化にまで至りました。
ターゲットとなる生活者と同じ目線に立ち、「共感」できるアイディアをクリエイティブに落とし込むよう心がけています。
ープライベートとの両立はできていますか?
はい!私は「自分が楽しまないと私が伝える楽しさは嘘になる」をモットーに仕事をしています。プライベートでは「推し事」としてアイドルを応援しているので、フレックス勤務を活用して、仕事終わりに新幹線に乗ってイベントに参加したりと、うまく仕事とプライベートを両立しています。
絵の存在と海外での生活
ー増谷さんは18歳まで日本語があまり話せなかったと伺ったのですが……
そうなんです!両親ともに日本人なのですが、父の仕事の都合でイギリスとドイツで0歳〜18歳まで育ったため、私の母国語はドイツ語なんです。日本にくるまで日本語は幼稚園児レベルでした(笑)。でもドイツ語も最初から話せたわけではなく……。
0歳の頃から複数の言語が飛び交う環境にいた影響で、子供の脳では処理できず、”何も話すことのできない子”でした。言葉で伝えることができないので、常にペンやクレヨンを持ち歩き、絵を描くことで気持ちを伝えていました。
ー増谷さんにとって絵を書くことがコミュニケーションの手段だったんですね
はい、小学生になっても言語がまともに話せなかったので、両親はかなり心配していたようですね。さらにすべてのことに疑問を持つ性格で、「なんで?」「どうして?」が止まらず、納得しないと言うことをきかない頑固者でした。1日が24時間であることに納得できなかったため、時計も読めませんでしたし、座って食べる必要性に納得できず、学校でも必ず踊ったり側転しながら食べていました(笑)。でもこの何事にも疑問を持つ性格が探究心に変わって、今の業務にも役立っているように感じます。
ー学校も海外の学校に通われていたのですか?
はい。高校3年生まで個性溢れる学生が集まるドイツの学校に通っていました。
ーどんな学校だったのかくわしく教えてください
少し変わった教育をおこなう芸術学校です。授業も教科書がなく自分たちで調べ、真っ白いノートにまとめて自作するんです。他にも鉄打ち、木彫刻、陶芸、農業、ダンスの授業もありました。
修学旅行も、スイスの山を登ったりサーカスに入団したり(笑)。修行のようなプランでした。この学校生活がハードモードすぎて、そのまま覚醒したかのように急激にドイツ語が話せるようになりました。生命の危機を感じたことによる進化ですね。同時に絵はコミュニケーション手段ではなく、特技に変わり、趣味になっていきました。
日本との出会い
ー18歳まで海外で生活されていて、日本で働きたいと思ったきっかけはなんだったんですか?
きっかけは「漫画」です。高校の時に雨宿りのために普段は入らない図書館に偶然入り、日本の漫画に出会ってしまったんです……!それ以来、日本の漫画・アニメにハマり、ほとんど話せなかった日本語を独学で覚え、話せるようになりました。
それから日本が大好きになり、日本語でSNSアカウントを作りました。そのアカウントで趣味の絵を投稿し、日本の方と日本語でやりとりしたり、褒めてもらえることが楽しくて、生きがいになっていきました。そして、いつしか趣味で関わるだけではなく、「日本で仕事をしたい!」と思うようになり、決意してから3ヶ月後には1人で日本に引っ越していました。
就職活動から入社まで
ー日本に来てからどうやって就職活動をされたんですか?
ずっと芸術系の学校に通っていたので、クリエイティブ関係の仕事に就きたいと思っていました。ただ当てもなかったので、弾丸でいろいろな企業を訪問しました。
「ドイツから来て日本で働きたいのですが、そのためにまずは日本の学校に入ろうと思っています。御社はどこの専門学校からの入社者が一番多いですか?」と聞いて回りました。そこで一番名前が挙がっていた専門学校へ入学しました。
ーすごい行動力ですね。専門学校ではどんなことを学ばれていたのですか?
学校では、3DCG(※)映像を専門に学んでいました。ピクサー映画のような実写が一切入っていない映像の制作です。制作の中でディレクション業務を経験していくうちに、映像分野での専門職につきたいという思いよりも、もっと広い分野のクリエティブに関わりたい、ディレクションをする方が楽しいと感じ、アートディレクターを目指すことに決めました。
ーGMO NIKKOとの出会いを教えてください
私の通っていた専門学校では、3年次の教育プログラムで全員参加必須の1ヶ月間のインターンシップ制度があり、私はGMO NIKKOに行くことになりました。インターンシップでは、ムービーラボという部署でひたすら映像制作のアシスタントをさせていただきました。インターンシップが楽しすぎて毎日「もういっそ今日から入社できないかな」と考えていました。インターンシップ参加後、GMO NIKKOの選考を受け、入社することになりました。
ーGMO NIKKOに入社を決めた理由を教えてください
いろいろな大手企業の選考も受けましたが、どの会社よりも”人柄”を好きになれた会社だったという点が一番の決め手です。
ー具体的に人柄が良いと感じたエピソードはありますか?
はい。私はGMO NIKKO以外の他のインターンシップにも参加していたのですが、私の生い立ちや母語がドイツ語であることをお話しすると、「日本語ができないからこの仕事をやろう」と言われてしまうことが何度かありました。やる前から決めつけられてしまうことが多かったんです。
しかし、GMO NIKKOでは、私に仕事の指示をする時にも、「この仕事はやっておいた方が今後良いアートディレクターになれるから一緒に頑張ろう」と、偏見を持たずいろいろな業務に挑戦させてくれました。
その経験からGMO NIKKOは偏見を持たず接してくれて、積極的にさまざまな業務にチャレンジさせてくれる会社だと感じました。
「自分の成長の為に入社したい!」という気持ちと同時に「この人たちと一緒に頑張りたい!」と思うことができ、入社を決意しました。その気持ちは、入社して1年を迎えた今も変わっていませんね。
インタビュー前編、「【前編】ドイツ育ちの帰国子女がGMO NIKKOへ入社を決めた理由」をお読みいただきありがとうございました。
今回はGMO NIKKOの増谷さんに、生い立ちから入社までを振り返っていただきました。後編では、入社後に感じたこと新人賞を受賞した時のエピソードをお届けします。ぜひ後編もご覧ください!